カーボベルデ共和国

カーボベルデ共和国、通称カーボベルデは、大西洋の北、アフリカの西沖合いに位置するバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島からなる共和制国家。

マカロネシアの島国であり、元ポルトガル領であった。史跡としてはかつてポルトガルの重要な植民地であったが、フランシス・ドレークによって破壊された町シダーデ・ヴェーリャが残っている。

地理

カーボベルデ諸島(ヴェルデ岬諸島)は西アフリカから約375km離れた場所に位置している。10の島(内9は人が居住している)と8の小島から構成されている[2] 。大小15の火山群島からなり、最高峰はフォゴ島のカノ山(2829m)。熱く乾燥した気候で、旱魃が何年も続く事があり、農作物などの被害を受けやすい。

カーボベルデはバルラヴェント諸島とソタヴェント諸島に分かれている。サル島、マイオ島、ボア・ヴィスタ島は比較的起伏が少なく、砂丘等が見られるが、その他の島々は山岳的な様相を呈し、荒涼とした絶壁や荒地が広がり、国全体が深刻な水不足に悩まされている。

歴史

初期

ポルトガルの冒険家が1456年と1460年に、最初にこの諸島に着いた時は無人だったが、卓越風、海流などにより、ギニア海岸地方よりセレール人、ウォロフ人、レブ人、ムーア人の漁師などが訪れていたと思われる。

アラブ人、フェニキア人が昔から訪れていたという民話伝承がある。ポルトガル冒険者ジャイメ・コルテサンはアラブ人は塩田に塩を取りに来ていた事を記録していて、Sal Island (Salt Island, サル島、塩の島)を指していると思われる。

現代の作家ギャヴィン・メンジーズは『1421 中国が新大陸を発見した年』(2002年)の中で15世紀の中国、明時代の冒険家 鄭和が1420年にこの島に到達していると論じている(この本で著者はクリストファー・コロンブスの前に鄭和一行がアメリカ大陸を発見していたとする議論を展開している)。

記録が残っている「発見」

分かっているカーボベルデ史の日付は、15世紀に到達した最初のポルトガル冒険者による。1444年、ディアゴ・ディアスはいくつかの島を発見した。1455年にはジェノヴァ商人のアントニオ・ノリと、ポルトガル人のディオゴ・アフォンソが訪れた。その後数十年に、エンリケ航海王子の仕事に就いていた、カダモストとアントニオ・ノリが残りの島々を発見した。1462年にポルトガル居住者は初めてサンティアゴ島に到達し、熱帯最初のヨーロッパ人の居住地となるリベイラ・グランデ(今のシダーデ・ヴェーリャ)を創設した。植民地化が始まった当初は、マデイラ諸島やアソーレス諸島のようなポルトガル人の大規模移住は行われなかったが、16世紀には、アフリカから南北アメリカ大陸へ向かう奴隷船の中継拠点となり、奴隷貿易で栄えた[4]。カーボベルデには入植したポルトガル人と連行されたアフリカ人によってクレオール文化が築かれ、両者の混血も進んだ[4]。海賊がしばしばポルトガル人居住地を攻撃した。1585年、イギリスの海賊サー・フランシス・ドレイクはリベイラ・グランデを略奪した。リベイラ・グランデは1712年のフランスの攻撃の後、1770年に首都となるプライアに比べてその重要性を失った。

1912年の「カトリック百科事典」によると、カーボベルデ諸島は1460年に、ギニアは1445年にポルトガル人によって「発見」された。これらの領土はクレメンス7世により、1553年の1月31日に司教管区に選ばれた。

奴隷貿易港から商業港へ

カーボベルデ諸島は、18世紀終盤以降経験する頻発する旱魃・飢餓と、奴隷貿易の衰退により、その繁栄は緩やかに失われた。しかし、中央大西洋航路における位置は、カーボベルデを理想的な補給港たらしめていた。19世紀に、サン・ヴィセンテ島にあるミンデロはその素晴らしい港により、重要な商業港となっていった。一方、19世紀に入ると、断続的な旱魃や、ポルトガルからもたらされた大土地所有制度の弊害などもあって、カーボベルデ人の外国移住が始まり、特に多くがアメリカ合衆国へ向かった。

PAIGC

20世紀に入るとポルトガルは、カーボベルデのナショナリズムを緩和させるために、その地位を植民地から海外行政地域に変更した。しかし1956年、カーボベルデ人のアミルカル・カブラルとラファエル・バルボザは、ひそかにポルトガル領ギニア(現 ギニアビサウ)で、ポルトガル領ギニアとカーボベルデの独立のためのギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC)を結成した。PAIGCはカーボベルデとポルトガル領ギニアの経済、社会、政治状態の向上を求め、2両国の独立運動の基礎をなす。1960年にその本部をギニアのコナクリに移すと、翌年からポルトガルに対する武装抵抗を始めた。妨害行為は結果的に10,000人のソビエト連邦のサポートを受けたPAIGCの兵士と、35,000人のポルトガル人及びアフリカ人の軍隊による戦争になった。

1972年までには、ポルトガル軍の駐留にも関わらず、PAIGCはポルトガル領ギニアのほとんどを制圧していたが、カーボベルデは地理的に隔絶しており物流がさほど無いことから、PAIGCはカーボベルデのポルトガル支配を破壊しようとはしなかった。しかし、1974年4月にポルトガルで起きたカーネーション革命を受け、PAIGCはカーボベルデでも活発な政治運動となった。

カーボベルデの国会成立、独立

1974年12月にPAIGCとポルトガルは、ポルトガル人とカーボベルデ人による暫定政府の同意書にサインした。1975年の1月30日、カーボベルデ人は国会を選出し、ポルトガルから独立の法的承認を1975年7月5日に受け取った。

PAICV

ギニア・ビサウでの1980年の政変の直後(ポルトガル領ギニアは1973年に独立を宣言、1974年法律上の独立を認められる)、両国間の関係は緊張した。カーボベルデはギニア・ビサウとの統一の望みを捨て、カーボベルデ独立アフリカ党 (PAICV) を設立した。のちに諸問題は解決され、現在両国間の関係は良好である。PAICVとその先行者は一党体制を成立し、独立から1990年までカーボベルデを統治した。

複数政党体制へ

政権運営後、増大する批判を受けて、PAICVは一党体制を終わらせる憲法改正案を議論するための緊急議会を1990年2月招集した。反対グループは集まって、1990年4月にプライアで民主運動 (MpD) を形成した。PAICVとMoDなどの政党は共に、1990年12月の大統領選挙への異議を唱える権利を主張した。一党体制は1990年9月28日に廃止され、初の多数政党の選挙は1991年1月に行われた。MpDは国会での多数派を勝ち取り、MpDの大統領候補アントニオ・マスカレニャス・モンテイロはPAICVの候補者を破り、1975年から大統領職にあったアリスティダス・ペレイラからその座を継いだ。1992年には、憲法が制定され、議会制度が定められた。1995年12月の議会選挙は国会でのMpDの勢力を増大させ、全72議席のうちの50議席を占めた。1996年2月の大統領選挙では、マスカレーニャス・モンテイロ大統領を選出した。1995年12月と1996年2月の選挙は自由かつ公正であると内外の監視団によって評価された。

2000年と2001年の大統領選挙では、2人の元首相ペドロ・ピレスとカルロス・ヴェイガが主な候補者だった。ピレスはPAICV統治時代に、ヴェイガはモンテイロの大統領時代に首相だった。両者とも半数近くの得票数の歴史的接戦で、ピレスが17票差で勝った。